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コージー・パウエル(Cozy Powell、本名:Colin Flooks、1947年12月29日 - 1998年4月5日)は、イングランドのグロスタシャー州サイレンセスター出身のドラマー。多くの有名ロックバンドに在籍した渡り鳥として知られる。 「ローリング・ストーン誌の選ぶ歴史上最も偉大な100人のドラマー」において43位。 == 略歴 == 12歳の時に、学校のオーケストラの一員としてドラムを始める。1960年代に、セミプロのポップ・バンド「ザ・ソーセラーズ」に加わり、ドイツのライヴハウスを巡る。1968年にイギリス・バーミンガムに移り住み、ザ・ムーヴのベーシスト、エース・ケフォードの「エース・ケフォード・スタンド」やセッション・ドラマーとして活動する一方、ザ・ソーセラーズのメンバー、デイヴ・ボール、デニス・ボールらと「ビッグ・バーサ」を結成して活動する。 1970年、ジェフ・ベックに見出され、1971年に第二期ジェフ・ベック・グループのドラマーとして名を上げる。 グループ消滅後はセッション・ドラマーとして仕事を続け、録音した個人名義のEP「Dance with The Devil(1972)」が、1974年になってスマッシュ・ヒット作となり、自身の名を冠したバンド、コージー・パウエルズ・ハマーを結成する。1975年、リッチー・ブラックモアのレインボーのオーディションに応募し、第2期レインボーを支えるドラマーとなる。また、1979年に初のソロ・アルバム『オーヴァー・ザ・トップ』発表。「Theme one」は、BBCの音楽番組トップ・オブ・ザ・ポップスのオープニング曲に使われ、タイトル曲は、チャイコフスキー「序曲1812年」に合わせてのドラム・ソロ(レインボーのライブでも披露されていた演出)が収録されている〔CDjournal.com-リサーチ 〕。 レインボーでのパフォーマンスが認められ、1980年代にはグラハム・ボネット、ロバート・プラント、マイケル・シェンカー・グループ、ホワイトスネイク、エマーソン・レイク・アンド・パウエル、ブラック・サバス等、ハード・ロックを代表するドラマーとして数々のレコーディングやバンド・メンバーとして契約した。1990年代には、ベーシストのニール・マーレイと組んで、ブライアン・メイやピーター・グリーンのバンドに参加。その他、イングヴェイ・マルムスティーン等と共演。 「ツインバスドラムをノー・ミュートで演奏できる数少ないドラマーである」と言った説が広がったこともあるが、実際にはレインボウ時代に来日した際、ヤマハが開催した科学技術館でのドラムセミナー(1980年5月10日)でのインタビューで本人が「ミュートはしている。外からは見えない部分にミュートをしている。」と言っている。 レーサーへの転向を考えて一時期音楽をやめた〔シンコーミュージック刊「リッチーブラックモア レインボー編」によれば、レインボーに加入する前の一年間は音楽をやめてカーレースに没頭しており、レインボーに加入していなければ1976年にはフォーミュラ3に参加する予定だった。〕こともあるほど自動車の運転が好きだった。1998年4月5日未明、イギリス・ブリストル郊外の高速道路にて、サーブ9000ターボをシート・ベルトをせず酩酊下で運転かつガールフレンドと携帯電話で会話しており、時速167kmで中央分離帯に衝突事故を起こし、この世を去る。その2ヶ月後に発売されたブライアン・メイのアルバム「アナザー・ワールド」が遺作となった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「コージー・パウエル」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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